44歳になった源頼朝が父・義朝の菩提のために創建した寺です。
平治の乱で敗北した源義朝一行が東国へ落ち延びる途中、郎党の鎌田正清の舅にあたる長田忠致:おさだただむね:の屋敷に一旦身を寄せました。
ところが長田忠致とその息子・景致は恩賞に目がくらみ、源義朝を風呂に勧め武器がない状態にし、鎌田正清には酒を勧め、2人を討ち取りました。
平治の乱に源頼朝も出陣していましたが当時13歳、長田忠致の屋敷に辿り着くより前、関ヶ原付近ではぐれてしまい、この地には同行していませんでした。
頼朝は後に捕らえられ平清盛の下へ送られ、処刑にされるところを清盛の継母・池禅尼の嘆願により伊豆へ流罪となり、約20年後に挙兵。
平家を滅ぼした後、建久元年(1190)にこの地に立ち寄り長田父子を磔にしたと伝わっています。
境内から磔の松へ続く道が整備されています。
当院は白河天皇の勅願寺「大御堂寺」の一山十四坊の一つとして「宝乗坊」と号し、学頭職を勤めていた。
一山は建久元年(1190)、源頼朝公により、父・義朝公の菩提のために創建された。
慶長16年(1611)大御堂寺一山は、徳川家康公より250石を受け、そのうち当院は25石を拝領した。
堂宇は、度々兵火に焼かれ、本堂は慶安年間(1648頃)再建された。
江戸時代の宝暦年間(1751頃)現在の「密蔵院」と改称しています。
現在の本堂、弘法堂、山門は平成10年に新築しました。
本尊不動明王は、鎌倉期の作です。
境内の様子。
磔の松への標識が数か所にあります。
到着!!
磔の松については別ページで作成予定です。
野間駅から密蔵院へ直接向かうと徒歩約15分ですが、途中の「長田父子磔の松」から密蔵院へ続く道が近道です。
長田屋敷跡の向かいに磔の松へ続く道が続いています。
密蔵院の最寄り駅は野間駅ですが、1駅先の内海駅構内には下記のような案内があり、密蔵院も紹介されています。
野間~内海は源義朝ゆかりの地が多数あり、順次掲載予定です。