斎藤実盛にちなむ「サネモリ塚」。
実盛は平治の乱までは源氏方、その後は平家方として富士川合戦などに出陣した人物です。
行方知れずとなっていた塚が地元の方々の手により発見、修復されたことが神戸市ホームページ令和2年度の北区長日記の2020年8月の記事に掲載されています。
ページ中央よりやや下です。
https://www.city.kobe.lg.jp/f96104/kuyakusho/kitaku/shoukai/diary/index__.html
上記の記事を読んで実際に訪れてみました。
稲の害虫(特にウンカ)を駆除する「虫送り」祈願の塚。
山田地区では、大正の初め頃まで春から夏にかけて、わら人形を作り、夜間に松明を灯してそのわら人形を担ぎ、行列をなし、鉦や太鼓を叩いて田畑をまわり、稲等の害虫を駆除し、その年が豊作となるように、この塚で「虫送り」祈願の行事が行われていた。
わら人形の主は源平合戦頃の平家方の「斎藤別当実盛(サネモリ)」で、乗っていた馬が稲の切り株につまずいて転げ落とされた後、討ち取られた。
そのため実盛は稲を食い荒らす害虫の主になったという言い伝えがある。
この丸い板石の塚は梵字で「ア」と掘られ、南北朝初期のものとされる。
横の五輪塔は室町中期のものとされる。
山田民俗文化保存会
実盛が討ち取られたのは篠原合戦(現・石川県)で、木曽義仲軍の手塚光盛の手にかかりました。
この時70歳を過ぎているとされる実盛は、白髪を黒く染め老齢であることを悟られないようにしていました。
首実検で実盛の首を洗うと染めていた色が落ち、義仲や樋口兼光が実盛だと確信し、号泣しました。
実盛は木曽義仲の恩人でした。
義仲が幼い頃、大蔵合戦で父の義賢が源義平(義賢の甥、義仲からみていとこ)に討たれ、命を狙われた義仲を木曽の中原兼遠に預けて匿ったのが実盛です。
大蔵合戦→久寿二年(1155)
保元の乱→保元元年(1156)
平治の乱→平治元年(1159)
ここまで実盛は源氏軍でした。
平治の乱で義朝が敗北し、その後は平家軍として治承4年(1180)の富士川合戦では東国武士について尋ねられ、平家軍が恐れおののいたことが平家物語に描かれています。
そして寿永2年(1183年)、現・石川県の篠原合戦で平家軍として戦い、最期を迎えました。
※実盛を葬ったとされる「実盛塚」は石川県加賀市にあります↓
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/saitousanemoriduka/
「サネモリ塚」の文字の下に修復された年月「令和2年8月」
私が訪れたのは令和3年(2021)5月30日。まだまだ新しいです。
10段ほどの階段を上がります。
現地解説によると
五輪塔→室町中期、丸い板石→南北朝初期
実盛よりけっこう後の時代です。
行方知れずになっていた塚が発見されるだけでもすごいのに、立派に修復されるのが素晴らしいです。
この辺りにも源平ゆかりの地ですので史蹟巡りをされる際にはこの修復されたサネモリ塚もいかがでしょうか。
ちなみに虫送りと実盛の関係は各地に伝わっていて、神戸のサネモリ塚もその一つでしょう。
神戸電鉄 箕谷駅で下車。
中央が駅舎です。洋式トイレで石けんも完備。
改札を出てそのまま1分ほど坂道を下ると鮮やかな緑の屋根が目印のバス乗り場です。
衝原:つくはら:行きに乗車します。
約10分の乗車で山田小学校前バス停に到着です。
サネモリ塚まではここから徒歩20分ほどです。
バスの進行方向に徒歩2分ほどで右手に下記の写真場所が見えてきます。
途中までは六條八幡宮方向に進みます。
志染川:しじみがわ:を渡ります。
ここを左へ。
六條八幡宮についてはこちら↓
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/rokujyouhachimanguu/
このまま道なりに進みます。
坂を上ったと思ったら今度は下り。
ゆるやかな坂を下ったら右へ。
道なりに進みます。
あっ!!電柱に貼り紙が?!
「行止りダヨ バック困っちゃうな」をこのまま進みます。
独特な屋根?の建物が見えました。
舗装された道はここまで。
そして間もなく……あっ!!あれは?!!
ここがサネモリ塚の入口です。
サネモリ塚の向かいの家に犬たちが見学している間ずっとワンワン言ってきました( ̄▽ ̄;)
あまりに吠えるのでおうちの方が様子を見に出て来られました。すみません。