俱利伽羅峠合戦の前に平維盛を大将に平家軍が陣を敷き、後に時代に城が築かれたそうです。
住所
石川県河北郡津幡町字清水(旧津幡小学校の入口付近)
交通
①JR本津幡、もしくは中津幡駅徒歩約10分
②JR津幡駅徒歩約30分
※津幡駅の方が本津幡、中津幡駅より電車の本数が多い
②JR津幡駅徒歩約30分
※津幡駅の方が本津幡、中津幡駅より電車の本数が多い
探訪について
自由
探訪目安時間
15分~
お気に入り度
★★★☆☆
探訪日
2009/05/04
備考
–
解説板より
寿永2(1183)年の源平合戦の折、倶利伽羅の一戦を前に、平維盛配下の平家軍が津幡に布陣し、街道を見下すこの地に砦を設けたといわれる。
寿永2(1183)年の源平合戦の折、倶利伽羅の一戦を前に、平維盛配下の平家軍が津幡に布陣し、街道を見下すこの地に砦を設けたといわれる。
天正4(1576)年上杉謙信が越中より侵入し津幡に布陣し、七尾城を平定する足掛かりとしたと伝えられる。天正11(1583)年前田利家の支配するところとなり、越中に対する備えといて城を築き、弟の前田秀継に守らせた。翌12年、佐々成政の末森攻めの際に、利家は秀継と共に末森城救援の軍議をここで開いている。その後、利家が加賀・能登・越中三国を支配するようになると、この城は必要性を失い廃城となった。
津幡町教育委員会
津幡城趾
坂を登った見晴らしの良い場所です。
(津幡町観光ガイドサイトによるとここは旧・津幡小学校の敷地だったそうです)
平安時代は地形を活かして敵を防ぎやすい場所に陣をおくことが多く、この場所を平家軍が選んだのも納得です。
俱利伽羅峠合戦には平維盛、平通盛、平知度達が出陣しています。
維盛達はここで何を感じ、戦に臨んだのでしょうか??
辛いことに俱利伽羅峠合戦で木曽義仲軍を相手に平家は大敗してしまうんですね…
津幡城趾より東の方向が俱利伽羅峠です。
JR津幡駅
笹竜胆、揚羽蝶紋がはためいていました。
2009年5月当時の写真です。
火牛の像と俱利伽羅古戦記の説明
解説板より
寿永2(1183)年初夏の倶利伽羅山で平氏は、三位中将維盛を総大将に7万余騎の大軍で布陣をし、源氏は木曽義仲が率いる4万の軍勢で対決した。戦況は正に多勢に無勢ゆえ義仲は一計を案じ、樹木に旗印を括り、さらに密かに数百頭の牛を集め、角にたいまつを縛って、平氏の陣営へと夜襲をかけた。
平氏軍は大混乱を極め、深く切り立つ倶利伽羅谷へ人も馬も先を争って落ちて行った。今もこの谷は「地獄谷」とよばれている。この勝敗が、平氏に衰退、源氏は隆盛へと向かうきっかけとなった。
この像は源平盛衰記にもとづいて、ここ津幡の地に残る古戦史の絵巻を再現し、往時を偲ぶとともに、観光行脚の一端にと有志並びに会員の熱意により建立された。
寿永2(1183)年初夏の倶利伽羅山で平氏は、三位中将維盛を総大将に7万余騎の大軍で布陣をし、源氏は木曽義仲が率いる4万の軍勢で対決した。戦況は正に多勢に無勢ゆえ義仲は一計を案じ、樹木に旗印を括り、さらに密かに数百頭の牛を集め、角にたいまつを縛って、平氏の陣営へと夜襲をかけた。
平氏軍は大混乱を極め、深く切り立つ倶利伽羅谷へ人も馬も先を争って落ちて行った。今もこの谷は「地獄谷」とよばれている。この勝敗が、平氏に衰退、源氏は隆盛へと向かうきっかけとなった。
この像は源平盛衰記にもとづいて、ここ津幡の地に残る古戦史の絵巻を再現し、往時を偲ぶとともに、観光行脚の一端にと有志並びに会員の熱意により建立された。
昭和61年3月吉日 津幡町観光協会長
「木曽義仲ゆかりの地」の幟が。
勝ったのは源氏だから仕方ないけど、近くに陣を置いたのは平家なのに…>_<