『さゞ浪や 志賀のみやこはあれにしを むかしながらの山ざくらかな 平 忠度』
(大まかな意味)志賀の都はいまではすっかり荒れ果ててしまったが、長等山に咲く山桜は昔と変わらずに咲き誇っていることだ
この歌碑は大津京シンボル緑地観光駐車場内です。
「志賀のみやこ」は西暦667~672の都・大津京のことで、この忠度の歌碑から徒歩3分ほどの距離に近江大津宮錦織遺跡:おうみおおつのみや にしこおりいせき:として整備されています。
平忠度は寿永2年(1183)7月の平家都落ちの時に、自分の歌を残したいと選んだ秀歌100首余りを藤原俊成(平忠度の歌の師)に巻物として俊成の邸宅に忘れ形見として持参しました。
戦が続き、延期になっていますが藤原俊成は後白河法皇から千載和歌集の編纂の院宣を受けていました。
そして千載和歌集が完成したのは壇ノ浦合戦から2~3年後の文治3年(1187)または文治4年(1188)。
平家は戦に敗れ朝敵となったため「平忠度」名を出すことはできず一首を「読み人知らず」として千載和歌集に載せることとなりました。
それがこの歌碑となっている和歌です。
②JR「大津京」駅から徒歩15分
南へ40分ほど歩くと長等神社と長等公園があり、同じ歌が碑になっています。
大津市 | 平忠度の歌碑が建つ 長等公園 >> |
平忠度 |
大津市三井寺町 | 長等公園の歌碑を模した碑 長等神社 >> |
平忠度 白河天皇 |
話は大津京シンボル緑地に戻ります。
片隅に「近江大津宮錦織遺跡」の説明板が建てられています。
■史跡 近江大津宮錦織遺跡について
西暦663年、日本は百済を救援するために挑戦半島に出兵します。
しかし日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、日本は唐軍にいつ攻め入られるかという緊迫した状況を迎えます。その情勢の下、西暦667年天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行われました。
この近江に営まれた宮が大津宮です。
国の中心となった大津宮では、日本初の法令である「近江令:おうみりょう:」や全国にわたる最初の戸籍「庚午年籍:こうごねんじゃく:」がつくられたほか、漏刻(水時計)を用いた時刻制度なども制定されました。
西暦671年に天智天皇が死去すると、翌年、皇位継承をめぐって大友皇子:おおとものみこ:と大海人皇子:おおあまのみこ:この間に壬申の乱が起こります。
この戦いに勝利した大海人皇子は再び飛鳥へ遷都したことから、ここ大津に都が置かれた期間はわずか5年でした。
大津宮の所在は長い間不明でしたが、昭和49年に錦織地区で実施された発掘調査で大津宮の建物の一部とみられる遺構が発見され、その所在が明らかになりました。
以降、周辺地域で発掘調査が実施され、内裏正殿、内裏南門、回廊、堀などの遺構が確認されるなど次第に大津宮の姿が明らかになりつつあります。
現在地は遺跡の北端に隣接しており、大津市が平成15年に全国で10番目となる古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念し、大津宮を紹介するシンボル緑地として整備したものです。
「近江大津宮錦織遺跡」は京阪近江神宮前駅からほど近い場所にありますので、先に訪れてから平忠度の歌碑を見るのが良いでしょう。
それが↓です。
解説板が多数ありますのでぜひ現地で当時に思いを馳せながらご確認ください。
②JR「大津京」駅から徒歩10分
平忠度の誕生より約500年前の都。どんな姿だったのでしょう。