源為義:みなもとのためよし:は源義朝の父で、源頼朝・義経たちの祖父にあたります。
六条堀川に邸があったため六条判官(六條判官)と呼ばれていました。
保元の乱当時数え年で61歳。
崇徳上皇と後白河天皇の政権争いの保元の乱では息子の四男~九男と共に崇徳上皇方として戦いましたが、敗北、処刑。
処刑が命じられたのは息子の義朝。為義の長男で、後白河天皇方として父や弟たちとは敵対する形となりました。
処刑は保元元年(1156)7月30日に実行されました。
源為義は平安末期の武将である(1096~1156年)。
父 義親は西国で乱行を起こしたため、1108年に平正盛により誅される。
祖父 義家が1106年に死去し、家督を継いだ叔父 義忠が1109年に暗殺された後、為義は河内源氏の棟梁と称する。通称は六条判官、陸奥四郎。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により解官となる。
保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の義朝の手で処刑された。
保元物語では、義朝の部下である鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀で切られ、圓覚寺で埋葬されたとある。
この供養塔は、寺伝によれば『丹波街道(七条通)を挟んだ当寺の北側には、当山の再興(1596年)よりはるか昔に
為義公の墓があると伝える竹林があった。
貞享3年(1686)に後裔再整備をして、現在の五輪塔(荒廃した石塔の一部を五輪塔の下に埋める)を建立し、当寺が供養を頼まれた。』とのことである。
また明治45年(1912)京都駅操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場(京都市下京区朱雀堂ノ口町)からここへ移設した際に言い伝えどおり五輪塔の下から水輪などの石塔の一部が見つかり、水輪を積み重ねるなど現在のような形にしたとのことである。
<参考>
扶桑京華志巻之二(1665年)
「在朱雀祇陀林寺前竹林中乃古之圓覚寺之跡乎」
近畿暦覧記の大原野一覧(1681年)
「・・・是より七条通に出て、朱雀権現堂の前を過ぎ、この寺地蔵権現を祭れり、朱雀通にあたれる故に、世に朱雀権現堂とのみ称す、この北竹林の内に源為義の墓あり、荒廃せること見堪えず、源家の人再興あらまほしき事なり・・・」
どうやら中には入れない様子ですので、ここから拡大写真撮ったりしました。
どれが供養塔で顕彰碑かなど、詳しい解説が現地にあります。
真ん中の小さな石塔は?
源為義公塚から権現寺の門は見える距離にあります。
西へ徒歩30分または市バス「七条千本」下車徒歩1分
②JR「梅小路京都西」駅から西へ徒歩6分
七条七本松交差点近く、青果店の隣です。
下京のまちの源氏ゆかりの地を歩くモデルルートも紹介されています。
ここに紹介されている源氏ゆかりの地も随時アップ予定です。