平知度(たいらのとものり)は平清盛の七男。
俱利伽羅峠合戦にて甥の維盛やいとこの通盛、経正たちと出陣しましたが、知度は自刃し(または討ち取られ)ました。
首塚の側には源平合戦800年記念に植えられた「平清盛松」が成長しています。
平知度は平相国清盛の末子(七男)で寿永2年5月12日(1183年)倶利伽羅合戦にこの地で自刃する。
寿永2年5月11日倶利伽羅合戦の翌夜明に知度は赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着て黒鹿毛の馬に乗って西ノ山の麓を北に向かって50余騎を率い声をあげ鞭を打って敵中にかけ入った。
知度は馬を射たれたので降り岡田冠者親義と戦う。知度太刀を抜いて兜の鉢を打ったところ、兜脱げ落ち二の太刀にて打ち落す。
続いて太郎重義も打ち落した。
ここで知度は逃れがたきを知り自害したと源平盛衰29巻には記されている。
今もこの地を平谷と呼ばれております。
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↓■平家軍拡大
上 :三河守 知度
左下:上総守 忠清
右下:河内判官 秀國
↓■源氏軍拡大
上 :木曽冠者義仲
左下:那和太郎廣澄、落合五郎
右下:岡田冠者 親義
【補足】
平家物語覚一本を参考にすると、
俱利伽羅峠合戦では大手の維盛たちは木曽義仲軍と、搦手の知度は叔父の忠度たちと北へ25kmほど離れた志保山で源行家:みなもとのゆきいえ:軍と戦い、志保山(志雄山)合戦とも呼ばれます。
※志保山は石川県羽咋郡の志雄町(合併により現・羽咋郡宝達志水町)付近です。
※源行家は木曽義仲の叔父
維盛軍に勝利した木曽義仲軍は苦戦していた源行家軍の加勢に行き、平家を打ち破りました。
そのため上記のように知度と義仲が戦っている絵になっているかと思われます。
解説板の上の方に祠のようなものが見えます。
階段はこちら。
ちなみに小雨の日に訪れた私は階段を降りるときに滑りました…お気を付けください。
一人がお参りするくらいの空間しかありません。
蝶紋が嬉しいですね。
お花は定期的にお供えされているのでしょうか。
これも何かを祀っているのでしょうか???
道標には歌も。
「知度の 塚に陽の射す 秋しぐれ」
母も生年も不明ですが、兄である平清盛の五男・重衡が保元2年(1157)生まれですのでそれよりは若いことが分かります。
もしかすると甥の維盛(保元3年・1158年ころ?)より若いかもしれません。
■略系図
(太枠は俱利伽羅峠合戦に出陣)
治承4年 (1180年) |
富士川合戦 源頼朝軍に不戦敗 |
維盛、忠度、知度、他 |
養和元年 (1181年) |
墨俣川合戦 源行家軍に勝利 |
重衡、維盛、忠度、通盛、知度、他 |
寿永2年 (1183年) |
俱利伽羅峠合戦 木曽義仲軍に敗北、知度自刃 |
維盛、忠度、通盛、経正、知度、他 |
※史料により異なる場合があります。
知度が戦った源行家と木曽義仲の系図も
3本、松がありますが全部が平清盛松なのか説明板に近い1本だけなのか不明です。
源平800年を記念して平清盛が厳島神社参拝のおり、お手植えされた松の苗木を広島県音戸町教育委員会より寄贈されたので平知度の霊を慰めるべくここに植樹する。
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知度首塚から見下ろした景色。
俱利伽羅峠合戦の2年前に父・平清盛は病死していますが、ゆかりある松が近くで知度を見守っているようですね。