「にいたまつしま じんじゃ」は千載和歌集を編纂した和歌所で、藤原俊成:としなり/しゅんぜい:の邸宅があった付近です。
俊成は永久2年(1114年)生まれ。平清盛より4歳年上です。
この神社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊成:としなり:が、五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫」(そとおしのいらつめ)を勧請したことに由来する。
それに先立つ寿永2年(1183)、後白河法皇の院宣により、藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千載和歌集:せんざいわかしゅう:」を編纂し始めた。
ちょうどその年、木曾義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちするが、門下の一人である平忠度は、危険を顧みずこの屋敷に引き返し、「一首なりとも選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で、俊成は、その中から次の一首を選び、千載和歌集に載せたという。
さざなみや 志賀の都は あれにしを
むかしながらの 山さくらかな
江戸時代には、「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で、松尾芭蕉の師である北村季吟:きぎん:が、約7年間、この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書「万葉拾穂抄:しゅうほしょう:」の編纂に励んだ。
これらの由縁から、今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れている。
松原通りに面した商業施設などが立ち並ぶ一角に溶け込むように、鳥居が建っています。
「にいたまつしまじんじゃ」と読みます。
境内はこじんまりとしています。
平家物語7巻「忠度都落」の段には、一旦、京を離れかけた忠度が侍5騎と童1人とともに引き返し、俊成の邸宅前で「忠度」と名乗ると落人がきたと邸宅内でちょっとした騒ぎになりましたが、俊成が招き入れ対面しました。
ここで忠度が京へ戻れないことを覚悟していたような言葉とともに、勅撰集が選ばれるなら一首でも入れていただきたいと選んだ百首余りを書き綴った巻物を差し出し俊成も受取り約束しました。この時、俊成は数え年70歳、忠度は40歳。
忠度は思い残すことはないと西へ向かって歩みを進めました。
見送る俊成が忠度と思われる声で
「前途 程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」
(行く先はまだまだ遠い。私の思いはこれから越える雁山にかかっている夕べの雲に思いを馳せる)
と聞こえ、俊成は涙を抑えつつ邸宅内へと戻りました。
そんな場面を想像しながらお参りを終えました。
【近くの史蹟】
新玉津島神社からちょうど東へ徒歩約3分。大通りを渡り正面の宿泊施設の建物の1階歩道に面して祠のようなのが俊成が祀られている「俊成社」です。
下京区俊成町 | 千載和歌集を編纂した藤原俊成を祀る 俊成社 >> |
藤原俊成 |